假面の告白

あちらの作品とは関係ありません

吃音を治す鍵は自信か

社会人としての生活が始まった。

実家を離れ、一人暮らしが始まり、「あれもこれも」と買い出しをしていると、給料の殆どはクレジット請求代で飛んでしまいそうだ。

まるで整理整頓に無頓着だったのに、今は埃一つでも気になってしまうほどの潔癖症になってしまっている自分がひどく恐ろしい。会社の同期で仲良くなった友人は頻りに部屋への受け入れを要請するが、未だに人を部屋に上げられずにいる。

しかし、元を辿れば、僕は他人にビデオゲームのコントローラを触れることを小さい頃から気にしていたし、友人が帰るとそのコントローラを必ず除菌シートで隅々まで拭いていたことを思い出すと、潔癖の気が備わっていたことは否めない。

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話は変わる。僕は今日何を残すために久々にブログを書いたかというと「吃音症」のことである。

「おはようございます」

「こんにちは」

「ありがとうございます」

「かしこまりました」

どれも、毎日当たり前のように使用する言葉。他人がその人の第一印象を形成するための礎となる材料である。挨拶のできる人かできない人か、という判断材料とも言える。

心では挨拶をしたい、感謝を伝えたい、面白いことを話したい、などと思っていても、脳はそれらの意思とは反対に一文字目が発することを拒むように制止する。

その制止を振り切るように吃らない言葉に置き換えようと脳内で類語辞典を開く。しかし、僕の類語辞典はとても薄いため、適当な言葉が見つからない。

これ以上探索に時間をかけては沈黙が流れてしまう。タイムアップ。仕方がないので、僕ははじめに思いついた単語を発す。

案の定発音に詰まり、パニックから脳内で小さなショートを起こす。やっと発せたと思うと、句読点が来てしまった!次につながる単語を発そうとするときに、類語辞典で探索していなかったから、また言い換えができない!

また発音に詰まり出す。そしてパニックし・・・。

吃音者の会話は大業なのである。

 

僕が「吃音」に気付き始めたのは小学三年生の頃。おそらく、クラスの学級委員を一通り経験した後に心的ストレスから発症したと僕は記憶している。

(勿論その頃、僕の語彙帳に「吃音」なんていう言葉は登録されていなかったから、それを言葉で表現することはできなかった。)

この年は確かに印象の薄いものだった。「学校に行きたくない」とポロッと吐き出し始めたのもこの年。

正直、あの頃どういうプロセスを経てそこまでの心的ストレスが蓄積されてしまい、挙げ句の果て吃音を発症したのかは知る由もない、と言わざるを得ない。

 

吃音には波があり、周期的にひどい時期、軽い時期がある。

しかし、僕はちょうど一月前から大きく社会環境が変わったため、その周期が崩れ、ここ一月は吃音がひどくなっている。

このように吃音は周期的性質のみならず、身を置く環境によって変わる。

社会環境によるものだけだとすれば、親や古くからの友人といった、心置きなく話せる間柄との会話で未だに詰まるのは説明がつかない。そういった意味で、吃音は社会的環境とは切り離された、周期的性質を持っていると僕は結論づけている。

 

吃音の治療というのは一般に確立されている訳ではなく、未だに謎の多い「言語障害」と言える。吃音は厄介で、完治されたと思う時期に必ずまた吃音になる。著名人にも幼少期に吃音持ちだったという人は多いそうで、彼らに共通して言えるのは話でもって、話すことに「自信」を付けたと言えよう。

この自信という奴は未だに僕は得体の知れぬ、感じ取れぬもので、いろんな人から「自信を持って」とエールをいただいたものだが、この「自信を持つ」ということは、僕のこれまでの人生で一番頭を悩ましていると言って良い。