假面の告白

あちらの作品とは関係ありません

人生の岐路

院試の勉強がなかなか進まないので、何か気持ちを整理したくてエディタを開く。

真っ白な画面の左上でカーソルが点滅している。

学生時代は書きたいことが土砂降りの雨のように降りてきて、いつでも言葉が自然と文章へ生産できたが、今は本当に文章を書くこと自体が大業で、フレーズが時雨のようにポツポツとしか降ってこない。ここで、こう思われる方もいるかもしれない。

「言葉は降ってくるものじゃないよ」

しかし、何時、何においても、「文章を書く」という行為は動機(motief)から始まる。よって、motief たらしめるのは我々の潜在的な感情の変位である。これをわかりやすく例えるなら、電位差によって電流が生じることだと言えよう。その変位というのは故意に調節できるものではなく、我々がそれぞれもっている固有のセンサによって管理されている。だから、言葉は厳密に言えば降ってくるものだと私は捉えている。

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いま、私はこれまでの人生において最大とも言える岐路の前に立っている。厳密に言えば、片方の路を既に歩み始めているといっても良いが、まだ一応岐路に戻ってもう片方の路に進むことはできる。

1. 博士後期課程への進学

2. 会社員を続ける(いずれにせよ、今の会社は3年で退職してウェブアプリケーションエンジニアとして働く予定でいるから今まで縁遠かったインタプリタプログラミング言語を勉強中)

1. は視野を広めてみれば、いずれ 2. に合流することは明らかと思われるかもしれないが、私がここで示した1. は言うなれば、研究者になるという選択肢のつもりで書いている(でも、進学して学位を取る頃の自分がどういう考えをもつかわからない。それは就職してから自分の身に起きた心情の変化から明らかである)。

2. の人生は1. と比較すれば、楽なのかもしれないが、今の会社で苦労していては転職したところで、また同じ苦労を味わうことになるかもしれない。しかし、金銭的には苦労することもないし、休日には趣味も気ままにできるだろう。転職も一切せず、2. の人生で歩むと決めてしまえば、私の心はどれほど安らげるだろうと考えるときもあるが、そういう自分でいることに対する恐怖も同等にあるのも否めない。事実、気付いたら60歳で定年になりました、さあ第二の人生どうしましょう?なんて人生は真っ平である。

正直、心理状態を論ずると、明日は我が身と不器用ながらも様々な事に齷齪していた学生時代の方がよっぽど生として充実していたと思う。