假面の告白

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恋愛は権利から義務へ《恋愛結婚からお見合い結婚に戻そうよ》

 恋愛は自由にできるもので、自分の気持ちに従っていればそのうち結婚にもたどり着くのだと思っていた。しかし、昨日の(人生で初の)合コンに参加して、どうも自分は恋愛を「しなければならない」。感情を持たなければならないと徒に思っていただけだったとわかった。つまり、私にとって恋愛が権利から義務へと変化した瞬間を感じたのである。

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 かつて日本は恋愛結婚よりも両親が相手を見定めて紹介されるお見合い結婚が主流であった。その時代に生まれていないため、自分の恋愛感情とは別に結婚相手が定まってしまう感覚は説明できない。しかし、結婚は恋愛をすることとは全く違う。結婚生活は恋愛感情なんていう惚気麻薬に入り浸れるほどたやすいものではない。衣食住すべてを共にし、夫は妻と子供を養うために外に働きに行かなければならない。勿論、共働きで家計をお互いに支え合うということも考えられる。

 

 そんな、生活を俯瞰してみたとき、結婚する上で恋愛という過程は互いを幸福という最適に導く上で不可欠なものなのだろうかと考える。単に社会での自分のステータスや身の回りの運用能力の高さといった「機能」という名の歯車がお互いに一つの家庭を支え合う上で必要なのだと考えてしまう。そしてそういう点(欠点も含め)を認め合えることこそ、この先の長い結婚生活において重要なのではないかと思う。だから、婚約者を見る目と恋人を見る目とはまるっきり違う。私は恋愛結婚した人がいつそういう目線に変わっていくのだろうかと考え、きっと連続的に少しずつ変わっていくのだろうという答えを想像するが、その実際といったら私は未婚なので味わったことは当然ない。

 

 何が言いたいのかというと、私はお見合い結婚をすることはさほど現代においても問題ないという事である。自分よりも長い人生を送っているからこそわかる、人を見る目のある親が見定めた候補であれば、それなりにうまくいく可能性は十分あるし、お見合いのせいで恋愛結婚よりも幸せの薄い生活が待っているとも想像しにくい(むしろ現代は恋愛結婚が主流になって離婚率は増加しているではないか)。

 

 この年になれば、容姿が整っていることは「清潔感」と等しいと考えるようになる。そりゃ、テレビに出る女優やトップアイドルといった女性には特別な美しさやかわいさを見いだして好きになるのだが、自分のことをよく知っているこの年齢だからこそ、そういう女性とは無縁だと言うことにも気付くことができる。

 

 これは厭世的な考え方で、望まれるものでないと考える人も(極めて少ない数で)いるかもしれないが、そもそも人は期待をしてしまうから、現実とのギャップにいつも心を落としている。決して投げやりな生き方をしているわけではないが、今の自分にとって有効な選択肢を見いだすための一つの考え方なのだと思う。

 

 さて、初めて恋愛という感情を覚える中高生時代はそんな先の結婚生活など無関係に、ただずっと恋人の側にいたいという気持ちに素直に従っているだけで幸せだった。しかし、この年になって結婚という単語が重くのしかかってくると、それは無垢すぎるものでやはり先述した「機能」的側面をひたすら考え出す。それは至極当たり前のことだ。

 

 昨日まで私はこの年になっても、恋愛を「しなければならない」とずっと思っていたことに気付いた。私にとって、恋愛は人生においてそこまで優先順位の高いものではないことを昨日の合コンで感じた。私は別に恋人が欲しいわけではなく、所詮世間体を気にしたものでしかなかった。合コンは終始仕事をこなしている感覚であった。

 

 正直に言うと私は恋愛に興味はなくなってしまった。また恋い焦がれた学生時代のように再び人に心を奪われ、ときめく時が来ると信じていたが、どうしても自分のタスクや人生設計が脳内で先行し、今彼女は作らない方が良いと解を出してしまうのである。

 

 恋愛弱者の戯言でしかないが、価値観の変化を感じる社会人一年目の恋愛事情(?)でした。