假面の告白

あちらの作品とは関係ありません

共感能力

Twitterでは頻りに他人のツイートを引用してコメントが載せられる。その中には明らかに発言内容を揶揄するものもあれば、称賛するものもある。しかし僕にとってどっちなのか判別できないのが「皮肉」である。

皮肉は相手を称賛するようで煽るような発言なわけだが、僕はこの皮肉を言われたとき「ありがとうございます」と感謝してしまい、後で嘲笑されていたことを知ったときにあれは皮肉だったんだ、ということに気づくことがある。

全般的にメタファーに属されるものも解釈が苦手であり、現代文の授業とかテストとか能力を試される場では至極苦労した。

自分のこの抽象的な言語表現の解釈の弱さに気づいたのはそれほど最近ではなく、小学生から中学生くらいだったと思う。きっかけは何なのか忘れてしまったけれども、冗談を真に受けてキレてしまって、その場の空気が取り返しのつかないことになってしまうことはしばしばあった。そうして、できたばかりの友達が離れていく経験は何度もあったし、それは単純に悲しい気持ちになった。

それ以来だろうか、黙然としていることを好み始めたのは。

黙っていれば、他人を傷つけることはないと学習し、複数人での会話のような複雑な状況下では他人にすべてを任せる癖が現れ始めた。

 

自身のこうした他人と比較したとき、とりわけ会話を必要とする場面で異質とみられる傾向をウェブで調べてみると、アスペルガー症候群だとかいう発達障害に行きつく。

またか、また最近流行りの大人の発達障害を隠れ蓑にするのかとかと思った。ただ、共感能力が低くて場違いなコメントをしてしらけさせることもアスペルガー症候群特有の気質だというから、これは可能性として自身がアスペルガーであることは否定できない。

共感能力の低さは共感してほしさの低さとは何ら関係がない。共感してほしいことはたくさんある。しかし、それを言語化することも叶いづらいのが現状である。なぜなら端的に言えば、考えていることがそもそもズレているからである。

 

僕はいまだに人間アレルギーだ。